[西安]興慶宮公園に阿倍仲麻呂記念碑を見に行った記録&写真[記念碑場所]

興慶宮公園東門 中国

興慶宮は唐の玄宗が藩王を務めていた時期の邸宅で、玄宗の即位後に大規模に拡張され、長安城の三大内(太極宮、大明宮、興慶宮)の一つとなりました。玄宗の開元、天宝時代の中国政治の中心地であり、愛妃楊玉環(楊貴妃)と長く住んでいた場所でもあります。天宝十五年(755年)の安史の乱後、興慶宮は政治活動の中心的地位を失い、太上皇や太后の閑居所となり、多くの時間は太后などの後宮が常駐していました。唐末に長安城が破壊され、興慶宮は廃棄されました。

興慶宮公式サイト
https://www.xingqinggong.com

北京に語学留学中の2019年1月17日、西安旅行中に興慶宮公園(兴庆宫公园)に行き、阿倍仲麻呂記念碑を観光しました。

西安への行き方

空路で行く場合:
西安咸陽国際空港(XIY)までは成田空港、関西空港、中部国際空港から直行便が運行しています。
現在は西安咸陽国際空港から西安市内までは地下鉄で繋がっているようです。2018年当時は空港から市内まではバスで行きました。

陸路で行く場合:
西安市内の高速鉄道の駅は西安北駅(西安北站)、西安駅(西安站)、西安西駅(西安西站)などがあります。北京から西安に行ったときは寝ている間に着く寝台列車を利用したりしました。

興慶宮公園(兴庆宫公园)への行き方

最寄駅は地下鉄6号線の交通大学・兴庆宫駅です。交通大学・兴庆宫駅から興慶宮公園の東門入り口までは徒歩7分程度です。

阿倍仲麻呂記念碑(阿倍仲麻吕纪念碑)の場所

阿倍仲麻呂記念碑は興慶宮公園の敷地の南東部分にあります。阿倍仲麻呂記念碑だけを見たい場合は南門から入ったほうが近そうです。

興慶宮公園内の観光

東門から入りました↓
南門よりも小さい門です。

興慶宮公園東門

興慶宮公園の敷地内にはところどころこのような石でできた案内板がありました↓

阿倍仲麻呂記念碑がありました↓

「阿倍仲麻呂の中国名は晁衡で、8世紀に中国に留学して長安に終焉した中日文化交流の使者である。彼のために建てられた記念碑は、環境が優美な西安唐興慶宮遺跡公園内にある。」
阿倍仲麻吕纪念碑より引用

「阿倍仲麻呂記念碑は漢白玉(中国の漢代から宮殿の石階や護欄などに用いられてきた白色の大理石)を用いて築造され、唐の構造を模倣し、碑の高さは5.36メートルで、端正で峻抜である。碑の正面には「阿倍仲麻呂記念碑」の八文字が刻まれ、裏面にはその事跡が刻まれている。義慈恵柱と唐石灯から着想を得て生まれた四角い石造記念柱を採用し、柱の頭には中日友好を象徴する梅と桜のレリーフが刻まれ、柱の基には蓮弁彫刻が採用され、柱の周りの欄干には日本遣唐使船のレリーフが刻まれ、両側の柱は「巻き殺し」処理され、それぞれ晁衡の「望郷詩」と李白の「泣晁衡詩」が刻まれ、深い中日文化の内包を持っている。」
阿倍仲麻吕纪念碑より引用

義慈恵石柱(義慈恵柱):中華人民共和国河北省保定市定興県石柱村に位置し、北斉に建てられ、葛栄蜂起鎮圧を記念する記念柱

唐石灯:唐代の石灯籠

巻き殺し(または接点曲線、ラテン語:Entasis):建築学術語であり、建築構造の中で、美学上の考慮から柱、梁、枋、闘アーチ、椽などの部材に対して底端からある割合から緩和された曲線または折れ線を先端まで切り出し、部材の外形を豊満で柔らかいものに見せる処理手法を指す。

晁衡(阿倍仲麻呂)の望月望鄕↓
翹首望東天
神馳奈良邊
三笠山頂上
想又皓月圓

和歌だと「天の原ふりさけみれば春日なる三笠の山に出でし月かも」になります。

参考サイト:

晁衡 阿倍仲麻呂 望月望郷 望郷詩 日本漢詩選 詩詞世界 碇豊長の詩詞:漢詩ribengushi

李白の泣晁衡詩↓
日本晁卿辭帝都
征帆一片繞蓬壺
明月不歸沈碧海
白雲愁色滿蒼梧

参考サイト:

【心に響く漢詩】李白「哭晁卿衡」~阿倍仲麻呂の訃報に哭す|泉聲悠韻
李白 奈良時代、阿倍仲麻呂(698~770)は、入唐留学生として遣唐使に随行し、717年、19歳の年に、唐の都長安に赴きました。 到着後、はじめは太学(国立の最高学府)で学び、科挙に合格し(あるいは推挙により)唐王朝の官吏となります。玄宗の...

「阿倍仲麻呂は日本の遣唐留学生で、日本の奈良市に生まれ、770年に長安で逝去した。彼が中日友好と文化交流のために不滅の貢献をしたことを記念して、1979年にこの記念碑を建てた。」↓

また案内板がありました↓

南門に向かいます↓

南門↓

南門を出ると西安交通大学が見えます↓

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